「いただきます」の原点へ― 鼻ぐり塚参拝に込めた、命への感謝 ―

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私たちナショナルフーズは、焼肉を通じて、毎日たくさんのお肉をお客様のもとへお届けしています。香ばしい煙の向こうにあるお客様の笑顔のために、店では日々、数えきれないほどのお肉を仕込みます。けれど、忙しさに追われるうちに、そのお肉をつい“商品”や“食材”として見てしまう瞬間があるのも、正直なところです。

私たちは、命をいただくことで成り立っている会社です。牛や豚の命があってこそ、お客様の「美味しい」も、私たちの仕事も生まれている——。その当たり前の、けれど忘れてはならない原点に立ち返るために、ナショナルフーズでは幹部が揃って年に一度、ある場所へ足を運んでいます。岡山市・吉備津神社のほど近くにある「鼻ぐり塚」です。

▲ 福田海本部の境内にある「鼻ぐり塚」への案内

鼻ぐり塚とは?

鼻ぐり塚があるのは、岡山市北区吉備津、吉備津神社にほど近い「福田海(ふくでんかい)本部」の境内です。

吉備津彦神社と吉備津神社を結ぶ、吉備の中山の山裾に沿った古道をたどると、木立の奥に「鼻ぐり塚」と記された案内板が現れます。名前だけでは、その正体はなかなか想像がつきません。けれど一歩足を踏み入れると、多くの人が思わず息をのむことになります。

▲ 全国から納められた鼻ぐり。福田海によれば、その数は680万個を超えるといいます

“鼻ぐり”とは、牛の鼻に通す鼻輪のこと。かつて農家では、牛を家族の一員のように大切に育て、その鼻に通した鼻ぐりに縄を結んで、田畑の耕作などをともにしてきました。やがて牛は飼い主の手を離れ、肉となり皮となって、その一生を人のために尽くします。鼻ぐりは、そんな牛が最後に残す“唯一の形見”ともいえるものです。

福田海は、人知れず善い行いを積む“陰徳積善”を大切にしてきた教えとして知られています。その開祖・中山通幽(つうゆう)師は、京都・化野念仏寺の千灯供養をはじめ、全国各地で無縁墓の供養や史跡の復興に力を注ぎ、人々から“墓王”と呼ばれ慕われた人物でした。

そんな通幽師が、人のために尽くして一生を終えた牛の大恩に報いるため、その唯一の形見である鼻ぐりを集めて供養することを発願したのが、この鼻ぐり塚の始まりです。大正の末から昭和のはじめに築かれて以来、篤信の人々の手によって鼻ぐりは全国から寄せられ、今も年に数万個ずつ増え続けています。うずたかく積み上がったその山は、私たちが日々どれほど多くの命に支えられているかを、静かに、しかし圧倒的な迫力で物語っています。

▲ 塚の正面には馬頭観音が祀られ、牛と豚の像が寄り添う

塚はもともと円墳で、その墳丘の上に鼻ぐりが積まれています。正面の開口部には、家畜供養の本尊として馬頭観世音菩薩が祀られ、その両脇には牛と豚の像が静かにたたずんでいます。石室の内には、真鍮製の鼻輪を溶かして作った、阿弥陀仏の名号を刻む金属板が納められているといいます。ここでは春と秋に畜魂祭が営まれ、牛だけでなく、人の暮らしを支えてくれたすべての家畜の魂が、手厚く供養されています。人の恩に報いることを何より大切にしてきた福田海の想いが、この塚には静かに息づいているのです。

なぜ、私たちは鼻ぐり塚を参拝するのか

▲ 年に一度、幹部が揃って塚の前に立ちます

焼肉店として歩む私たちにとって、お肉はなくてはならない存在です。だからこそ、日々の忙しさの中で、いつのまにか「食材」「商品」として当たり前に扱ってしまうことがあります。数字や効率だけを追いかけていると、その一枚の向こうにあるはずの“命”が、すっと見えなくなってしまう瞬間があるのです。

けれど、その一枚一枚は、確かに生きていた命そのものです。「命への感謝を忘れない」「命を無駄にしない」「感謝していただく」——。頭ではわかっていても、日常の中では見失いがちなその原点に、体ごと立ち返るために、幹部が揃って手を合わせる時間を、年に一度、大切にしています。

そもそもナショナルフーズには、「ひとりのお客様の満足とひとりの社員の幸せ」、そして「楽しい食事とおいしい笑顔」という、大切にし続けている言葉があります。お客様に喜んでいただくことも、社員が誇りを持って働けることも、突きつめれば、いただいた一つひとつの命があってこそ成り立つもの。鼻ぐり塚に手を合わせる時間は、その原点を、頭ではなく心で思い出させてくれます。

積み上げられた鼻ぐりの山の前に立ち、静かに頭を垂れる。すると、自然と背筋が伸びます。色とりどりの鼻ぐりの一つひとつが、かつて確かに生きていた一頭の牛だったのだと思うと、胸に迫るものがあります。私たちが掲げる「食を通じて人々に喜びと感動を届ける」という使命も、その喜びのもとをたどれば、こうしていただいている無数の命に行き着きます。参拝は、一年の“初心”を確かめ、そこから新しい一年の仕事を始めるための、大切な区切りの時間なのです。

「命をいただく」視点を、日々の仕込みへ

▲ 塚の前で、静かに手を合わせる

参拝は、その日一日で終わる特別な行事ではありません。「命をいただいている」という視点に立ち返ることは、そのまま、日々の仕込みへの向き合い方につながっています。

一頭の牛から届いたお肉を、無駄なく、丁寧に。店内で一枚一枚を手切りする、その手つきの奥には、「せっかくいただいた命を、いちばん美味しい状態でお客様にお届けしたい」という想いがあります。丁寧に筋を見極め、部位ごとの持ち味を活かして切り分ける。ときに手間はかかりますが、それは、いただいた命に対して私たちができる、いちばん素直な礼儀だと考えています。端の一切れ、脂の一片にも、いただいた命が宿っている。そう思えば、無駄にできるものは一つもありません。

そして、この想いは、一部の人だけが抱えるものではありません。仕込みの現場でも、朝礼やミーティングでも、「なぜ丁寧に向き合うのか」をスタッフ同士で分かち合っていく。鼻ぐり塚で幹部が感じたことを、少しずつ店の空気として広げていく。感謝は、掲げるだけでは形になりません。目の前のお肉に、ひとつひとつ丁寧に向き合うこと。それが、私たちなりの“いただきます”の実践なのだと思っています。

参拝を、次の世代へ

この参拝を、一部の幹部だけのものにしておきたくない——私たちはそう考えています。新しく仲間になったスタッフにも、「なぜ私たちは命に感謝するのか」「なぜ一枚のお肉を大切に扱うのか」を、折にふれて伝えていきたい。年に一度、季節がめぐるように鼻ぐり塚を訪れ、そこで感じたことを日々の仕事へ、そして次の世代へと手渡していく。そうして受け継がれていく感謝の心こそが、どんどん亭の味を、そしてお客様の笑顔を支える、いちばん確かな土台になっていくと信じています。

おわりに

お客様に「美味しかった」と笑顔になっていただくこと。そして、その一皿を囲んで、ご家族の団らんやにぎやかな時間が生まれること。それこそが、いただいた命への、いちばんの恩返しだと私たちは考えています。

これからもどんどん亭は、命への感謝を胸に、一皿一皿と真摯に向き合ってまいります。次に焼肉を囲むとき、ほんの少しだけ、その一枚の向こうにある命に思いを馳せていただけたら——。そんなひとときもまた、私たちが大切にしたい“おいしい笑顔”のかたちのひとつなのです。

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